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言葉で語りえぬもの

ts205-3.png
このスタイリングが意味するものを140字以内で論じよ

[本質の居場所]
本質、という言葉は耳に心地よい。

本質を口にするとき、そこにはある種の快感が生じる。
俺はいま、木を眺めつつ森も俯瞰し、万物の理の一端に触れているのだ、そう思わせる中毒性がある。

だが果たしてすべての事象にあまねき真理としての本質という帰結は存在するのだろうか?
そして仮にあるとすれば本質はひとつなのだろうか?

ひとつの事象にある方向から光を当てたとき、その他方は陰になる。
全く同じものを見ているはずなのに、まったく別なものを見ていると感じる人間が複数いてもおかしくはない。

見解の相違はいつだって様々な対立を生み出す。
対立そのものは悪ではない。
多くの場合、対立は醜い争いを生み、時に凄惨な状況をつくりだすが、意見の衝突により新たな思想体系が立ち上がるかもしれない。

誤解を解きたいわけじゃない。
フラットな状況認識を勧奨したいわけでもない。

ただ少し悲しいだけだ。


[個人的立場の表明]
ファッションという言葉を目に耳にしたとき、大部分の人が表層(=見た目そのもの、視覚認知)を問題とするのではないかと思う。
街往く人々の装いを見て、その服やスタイリングが発する真のメッセージ(というものがあれば)を読み取る人種はそう多くはない。

このこと自体には正解不正解はないと僕は考えている。
ただそれでは個人の意見として何も言っていないに等しい。
全く偏りのない見解などといったうつくしいものはこの世界にあって存在しないとは言わないが、非常に稀少な存在だ。
完全な善あるいは完全な悪と同じくらいに。

だからある程度自分の立場ははっきりさせておこうと思う。
ファッションの本質は表層か概念か。
そのいずれもが本質たり得ると思いつつも、ファッションの第一義はその表層にあるのではないか、という立場を僕はとる。

ごく簡単に言えば見た目が第一、という立場だ。
学問としては表形学や形態学になるだろうか。

つまりどんな服を着ていても視覚から得られる以上の情報を重要視しないという立場だ。

それは自分が瞬間的に物事を深く考えられない(誰かの身につけているものをぱっと見たとき、その誰かが洋服を通して語りたいイデオロギーなりメッセージなどを読み取ることができない)からかもしれないし、ファッションの背景をそれほど重要視していないせいかもしれない。


[事例研究]
たとえば下の画像を提示する。

20160801005029095.jpeg

僕だ。
さしたる特徴はない。

ないながらも、ここからいくらか情報が読み取れるだろう。

この格好を選択したのは自分だから、他人の視覚認知に期待する意図はすらすらと説明できる。

黒のカットソー、白のパンツ、黒の革靴。
全体を2色にまとめてすっきりさせた。
Vネックを選んだのは顔の丸みをVの鋭角で相殺するため。
首周りの布の分量を減らし首からの連続性を保つため。
男性性もアピールするため、肩周りや胸回りはややタイト目に。
パンツが白なのは黒とのコントラストのため。
コットンでケアのイージーさを保ちつつ、スラックスタイプ、クリース、ダブルでカジュアルアップを目論む。
真夏のうだるような暑さの中でもサンダルなどは履かず、レザーシューズを持ってくることで品性を訴える。

まとめると、難易度の高い白のドレスパンツで鍛えた上半身を支えつつ、レザーシューズできっちりと足下を引き締めた夏のおしゃれアピール(うざい)ということになる。

視覚から得られる情報だ。
見た印象で、この人がどんな人なのか、なんとなく想像できるかもしれない。


[ハイ/ローあるいはマルジェラという巨人]
現在では残念ながら廃刊となってしまっているが、かつて「ハイファッション」という雑誌があった。

世界各地のコレクションに参加するようなハイ(=社会的評価が高い≒価格が高い)ブランドを主に扱う情報雑誌であったのだが、マルジェラの出現を経た現在、ハイの意味は若干変容しつつあると考える人もいる。


少しだけマルジェラの話をする。

かつてマルジェラは、表層的な服の美しさで価値が停滞し、次の一手を見つけられなかったファッションの行き詰まりに向かって無言で銃口をつきつけた。
そのときファッション自身が閉塞感を覚えていたかどうかはわからない。
しかし、多くの人々がそう解釈した。

その銃には「概念=コンセプト」という刻印が打たれていた。

古着の解体、再構築。
名もなき歴史的アーカイブを引用しそのままほぼ手を加えることなく市場に出すことでその選択眼やものの価値の相対性にスポットを当てたレプリカシリーズ。
ドールコレクションでは人に似せた異形に着せる服を人間に転用、誇大に拡張されたのはディティールだったのかそれともそれを着る人の意識だったのか。

表面的な美しさに飽いていた(もしくは表面的な美しさのみでは退屈だと気付いた)ファッションフリークたちはマルジェラがほぼ何も語らなかったにも関わらず、そのコンセプチュアリティをさまざまに読み取り、戸惑い、心酔し、マルジェラが用意した銃の引鉄を次々に引いた。
それまでの、きれいなだけの洋服たちに向けて。
その銃弾を浴びた退屈な布きれたちのおびただしい量の血が流れて生まれた川は、服の歴史をマルジェラ以前と以後に分ける境界線として機能し始める。
before Christ、そして、anno Domini。

同時に服を見る時のひとの意識もマルジェラ以前と以後に別れたのかもしれない
なぜそのアイテムを選び、どうしてそれらを組み合わせるのか、そのコンセプトを問う人種が生まれたのだ。
自然、それが高尚(ハイ)か低俗(ロー)かという評価軸も発生する

以上のようなファッションの歴史的文脈があると仮定し、ハイ/ローの意味が変容しつつあることを断った上で、個人的な注釈を加える。

新たなハイスタイリングは「見た目がすげーかっこいいスタイリング」や「高価なファッションブランドに身を包んだスタイリング」ではない。
トップス・ボトムス・靴など「アイテムの選択とそれらの組み合わせ、それぞれに高度な文脈・意味性を潜ませることが出来ているスタイリング」ということになる。
ローは非ハイだと思っていただければいい。

だから理論的にはハイな服というプロダクトそのものの評価も可能であるし、ハイなスタイリングというメタ視点も成立する。


[ファッションに潜む視覚以上の情報]
さて命題を掲げる。
(スタイリングの1サンプルを見ての)ハイ/ローの判別は果たして可能か。

いや待ってほしい。
その前に議論の前提を欠いてはいけない。

何を以てハイとするか。

上では「それぞれのアイテムの選択とそれらの組み合わせに高度な文脈・意味性を潜ませる」と定義したが、それはあくまで個人的な定義であり、大多数が理解でき同意が得られる形で定義されなければいくら論を重ねたところでどこにも行き着かない。

高度な文脈とは何か、深長な意味性とは何か。

メインストリームに中指を立てるのがハイなのか。
音もなく、それでいて鮮やかに、それまでの権威を殺すのがハイなのか。
単純に社会に蔓延る闇を提起すればハイなのか。

残念ながら僕はもちろん、ファッションすらも正解を持たない。
ハイローの判定はあくまでも個々人に委ねられ、現時点でマスレベルでのコンセンサスは形成されていない。

なんとなく推し量れるのはそのアイテムの選択やスタイリングからほの見える方向性や嗜好、メッセージ性だけにすぎない。

ハイロー判別ゲームにはルールブックはまだ存在しないし、今後も生まれないかもしれない。
ルールブックのないところには正しさも闇も存在し得ないし、ゲーム自体の存在も危うい。

まあいい。
僕の個人的なハイの定義で話を進めよう。

まずハイかローかを判断するためには個々のアイテムがどこのブランドのものかがわからなければならない。
さらにそのブランドがどのような背景を持っているか、社会的にどのような評価にあるか、他ブランドとの相対的位置がどのあたりなのかなどの周辺知識が必須である。
その各論を押さえつつ、アイテムの組み合わせで生まれるメッセージ性=総論を読み取らなければ、このゲームの覇者にはなれないしプレイヤーにすらなれないかもしれない。

結論から言ってしまえば、相当のファッションオタクですら、洋服単体を見てどこのブランドかを同定することは難しいし、スタイリングからメッセージを読み取るのはかなり困難ではないかと思う。
再度自分を登場させ、それを考えてみたい。

20160801005029095.jpeg
カットソー:prada
パンツ:prada
シューズ:prada

仮にこのスタイリングにこんな注釈がついていたらどうだろう?

もしかしたら意見は真っ二つに別れるかもしれない。
・全身pradaとかダサくね?ハイブラに頼る時代なんてとっくに終わってるでしょ。
・さすがpradaですね。体のラインがきれいに出てますね。
・ブランドに身を委ねてるよね。それは一種の思考放棄か、もしくは宗教的よね。
・小金持ちアピール乙




20160801005029095.jpeg
カットソー:ユニクロ
パンツ:ユニクロ
靴:hare
これなら?
・今はユニクロでもそれなりに見えるよね。
・服なんかに高いお金出す必要なんかないんだよ。
・ユニクロだけあってなんだかしょぼいですね。




20160801005029095.jpeg
Tシャツ:ヘインズ+supreme
パンツ:リーバイス スタプレ(古着 デッドストック)
靴:JM weston(父親のお下がり)


あああああ!!
なんだかファッション分かってそう!!
解脱してるっぽくね?
Tシャツ?ヘインズは鉄板でしょ。made in USAね。究極のアノニマス。だけどほら俺シュプ世代じゃん?
パンツもさ、結局リーバイスに戻るんだよ一周回って。
でも靴はしっかりいいの履いておいた方がいいんだよ。
親父のお古だけどさ、やっぱ昔の革は現行のとはちょっと違うんだよね。


全く同じスタイリングを全く違う注釈付きで3例挙げてみたが、どう感じただろうか?
あなたはアイテムの選択やスタイリングに流れる文脈・意味性を読み取れただろうか?
そしてそれらはハイだっただろうか、ローだっただろうか?

と、問題提起をしながら違和感だけが漂う。

なぜならその読み取った文脈や意味性があくまで恣意的なものでしかないのではないかという疑念を払えないからだ。

例えば先のユニクロのスタイリング。
単純に被服費を節約したいだけかもしれないし、いろいろな服を買いに行くのが面倒なだけかもしれない。
それはローと呼べる行動かもしれないが、ファッションに心を砕くなど自分の人生には必要ないという確固たる意思の表明だとすればハイかもしれない。

ラグジュアリティに対するアンチテーゼとしてファストファッション中心のスタイリングというあり方も可能だし、「まだファッションなんかにご執心で?私などとっくに解脱しましたよ。人生でファッションより大事なことっていっぱいあるじゃないですか」と、敵と同じ俎上に乗らないという最強のマウンティングとしてユニクロを用いるという方法論も成り立つ。
思想としてはハイかもしれないが誰かと争う姿勢は醜くローだとする考え方もあるかもしれない。

ある程度の評価基軸はあろうが、やはりハイ/ローの判定に絶対的なものはない。
あなたのハイと彼のハイが同じものとは限らないし、そのハイ/ローにさえ、ハイ/ローが生まれてしまいそうだ。

そしてこれが決定的な問いになるが、これらの注釈が全くなかったとき、文脈の読み取り、ハイ/ローの判別は果たして可能だろうか?

答えはおそらく不可である。

僕の個人的な「それぞれのアイテムの選択とそれらの組み合わせに高度な文脈・意味性を潜ませる」という定義に従えば、それは形態から引き出されるものではなく、個々の服とスタイリングに付随する情報に依拠し、発生するものだからである。

さらに言うならば、自分の目で実際確認したものじゃなければ、いくら着てるものの解説が書いてあってもその真偽を確かめる術を我々は持たない。

ブランドのロゴやブランドのアイコン(ラルフのポニーやラコステのワニ)のついた服や、文章が胸に大きくプリントされたTシャツなど、メッセージ(性)が視覚情報としてイージーに載せられているアイテムが入っている場合にはその読み取りの難易度はぐっと下がる。ブランドのイデオロギーやメッセージをそのまま読み取ればいいからだ。

例えば「rape me」と書かれているTシャツを着ているものがいるとすれば、Nirvanaの大ファンであるか、言語として英語を知らないか、あるいはタガの外れた狂人であるかのいずれかだ。

ロゴと並んで一目でこのブランドの服だと分かる意匠を持つ服や代名詞的アイテムを持つブランドも読み取りやすい。
例えばリーバイスのアーキュエイトステッチ、バーバリーチェック、イッセイミヤケのプリーツ。
Dr.マーチンの8ホール、ティンバーランドのイエローブーツ。
それらを知っていればスタイリングの解釈は比較的容易かもしれない。
逆に言えばわかりやすい、だからこそキャッチーなものは市場に受け入れられやすいとも言える。

一方、見ただけでは出自が全く分からない服や一目で分かる意匠のない服ではハイローの判別は途端に困難となる。
例えば実際に上に挙げた僕の個々の服が何かなんてほとんどの人にはわからないだろう。

つまり市井の人間のスタイリングを対象にしてハイローを審査すること自体が困難であり、ひいてはその重要性を見いだすことも困難で、逆に何らかのメッセージを放とうとスタイリングを組み上げても正しく読み取ってもらえる確率は低い。
強い意図をもったスタイリングは確かにあるだろうが、あくまで個人の意思表明の域を出ない。

もちろんプロダクトのひとつひとつを吟味して組み合わせて、そこに高度な文脈があるかどうかを考えること自体はとても興味深い営みだ。

古来人類はありふれた自然現象の中に神々を見出してきた。
服そのものやその組み合わせに神話性を見出したとしても何の不思議もない。

しかし神話は広く民衆に受容され、あまねく伝承されてはじめて力をもつ。

分からないやつにはわからなくてよい、という態度は、風車を相手に戦うドン・キホーテとさして変わらない。
世界は1mmも変えられないし、giant killingも果たされない。


[ファッションの本質は表層か概念か]
両者ともに本質たり得るかもしれないが、やはり「見た目がすべてに先行する」という立場を僕は再度表明する。
それがたとえ観念的な思考のできないバカと捉えられても。
単純な視覚がなによりダイレクトに、なにより簡潔に正確にアクセスしやすい情報であることは揺るぎない。

仮に全く違う意図を持って全く同じスタイリングを採用した2人がいたとして、その表層からは相違性は決して見いだせない。
それだけは間違いがない。

言葉を補ってはいけない。
造形のみで服に雄弁に語らせなければならないのだ。


マルジェラが多くを語らなかったように。
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[ 2016/09/05 23:47 ] 雑記 | TB(0) | CM(3)

マルジェラに頼りすぎじゃないですか?
[ 2016/09/26 04:53 ] [ 編集 ]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
[ 2017/06/19 00:19 ] [ 編集 ]

Re: はじめまして

コメントありがとうございます!
smoothdayの感動を共有できて嬉しい限りです。
smoothdayのおかげで僕は完全にカットソージプシーから抜け出せました。
他のメーカーのものはここ2年ほど一切買っていません。

なんとかブログ更新頑張ります!
[ 2017/06/22 21:58 ] [ 編集 ]

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